どの音楽も、それぞれ個別のカラーを持っています。
その曲の持つカラーを表現して、聴いている人に伝えることは、シンガーにとっての大きな使命となります。(歌詞で伝えるという直接的な手段ではなく、もっと曖昧で主観的なものですが)
それは大きなホールで歌う場合でも、居間で家族の前で歌う場合でも同じです。聴いている人は音の羅列を聴きたいのではないのですから。
曲の持つカラーとは・・・「楽しさ」「悲しさ」「怒り」「苦しみ」「喜び」など、シンプルに一言で言い現わせることが出来るものから、「苦しみの中に喜びがある」「怒りを秘めた悲しさ」などのように少し複雑なもの、また「苦しみ~怒り~喜び」といった、曲が進むにつれてその色が変化していくものまで様々です。
表現者としてのシンガーは、上に書いたようなそれぞれの曲が持つカラーをお客さんに伝えるために「声」を使って歌うわけですが・・・
道具としての「声」を使ってその曲が持っているカラーを表現するためには、自由度が高く機能が充実した「喉」が必要です。そしてそれを実現するのがボイトレの目的です。何しろ、ほとんどの場合「道具=喉」は壊れているのですから・・・
さて、この記事では、上記のような内容で書き進めてみたいと思います。
お付き合い下さい。
曲の持つカラーを伝える力は誰にでも備わっている
「人間は本来皆、歌える生き物である」とはフースラーの言葉です。
さらに「歌うことは、人間に備わった属性である」とも書いています。
上記のようなフースラーの言葉を持ち出すまでもなく、人は皆、曲の持つカラーを伝える力・伝えたいという欲求を持ち合わせている事は明らかでしょう。
音楽の勉強など何もしたことがない子供に歌を教え、その歌には悲しい背景がある事を説明します・・・その子は、抑えたトーンの声で暗い調子でその歌を歌うでしょう。
一方、別の歌を「お祭りで歌う歌だ」という説明をしてから歌わせると・・・その子は、煌びやかなトーンの声で明るい調子でその歌を歌うはずです。
いや、曲の背景の説明を何一つしなくても、その子はその曲の持つメロディーやアンサンブルの調子を的確に理解して、その曲に合った声で、その曲にピッタリの音の運び方でちゃんと歌ってくれるはずです。(いや、正確には”ちゃんと歌おうとしてくれる”はずです)
「民衆を鼓舞する歌」は勇敢に高らかに歌うべきだ!「求愛の歌」は甘く切なく歌わなくてはならない!・・・そんな指導は必要ないでしょう。何も教えなくても誰でもそれ相応の表現をするはずです。この事はまさに「人間は本来皆、歌える生き物である」という事を証明しています。
ただ、それを実現するための道具が壊れている
上に書いたように、人は教えなくてもその曲が要求するカラーを表現しようとします。
しかし、ここで「喉の機能不全」という問題が立ちはだかってしまいます。
例えば・・・「激しい恋の歌」の一番盛り上がる部分の最高音=ラの音を、深く豊かな声で大きくビブラートをかけて長く伸ばしたいという「音楽的欲求」は、「喉の機能不全」のために実現せず、弱々しいファルセットに置き換えなければならなくなる・・・
「社会に対する怒りを込めた歌」の一番最後の部分、半音ずつ音が上がって行くフレーズに差し掛かる時には、もう「喉のスタミナ」が残っておらず、不本意に”半音ずつ下がる”フェイクに逃げなければならなくなる・・・
このような事が至る所で起こっているのではないでしょうか?
いやむしろ、ほとんど全ての人は自分の喉と”折り合い”をつけないと歌えないはずです
人は皆「壊れた道具」で歌う事を強いられているのです。
壊れた道具を直して感情のままに歌う事を可能にする
「声の訓練とは、再生の過程である」「声の訓練は治療である」・・・フースラーはこのような事も書いています。
上の項で「壊れた道具」と書きましたが、ボイストレーニングは「喉」という道具を「修復」する作業です。
誰にでも備わっている「曲のカラーを表現する力」・・・これを実現するためには「喉の修復」が必要なのです。
言い換えれば、道具さえ直せば、人は皆表現豊かに歌う事ができるのです。
欲求が道具の犠牲になってはならない
「こんな風に歌いたい」「感情のまま歌いたい」・・・音楽的欲求のままに歌ってこそ、人間という「歌える生き物」の面目躍如というものです。
しかし、ほとんどの場合は、大なり小なり「欲求が道具の犠牲になっている」と感じます。
僕自身のライブでも、残念ながら少なからず「欲求が道具の犠牲になって」います。感情のままに歌って声が途中で破綻することに対する恐怖が、僕には依然としてあります。難しい部分では声量を抑えて歌ったり、スタミナのいる歌では序盤で少し声をセーブしたり・・・そのような「音楽とは無縁の駆け引き」をしながら歌っている事は否めません。
ボイストレーニングとは、「音楽的欲求」と「喉の機能状態」を天秤にかけて歌うことから解放されるために行なうものです。
誰でも持っている「曲のカラーを表現する力」を台無しにしないためにも、壊れた道具を修復するかのように、地道に喉の機能回復に努める事が何より大切な事なのです。
以上、ご精読ありがとうございました。