感情的に解放された、裏声と地声に分かれてしまう前の小学生の声

僕は朝にブログを書く事が多いのですが、窓際の部屋でパソコンに向かっていると、外ではちょうど小学生が登校する時間です。

笑い声・友達の名を呼ぶ声・時には泣き声・・・色々な声が聴こえてきます。

僕は(ボイストレーナーという職業柄)彼らの声を「ボイトレの見地から」聴いていますが、皆一様に「見事に一本化」された強い声を持っています。

僕の耳に入ってくる声の主たちは、おもに小学校低学年の子供たちなのでしょう。とても甲高い声をしていて、まだ声に男女の「性差」がないように聴こえます。確かにアニメの声優さんの場合、小学生男子の登場人物の声は、女性が演ずる場合が多いように思います。

仲間同士で、大きな声で笑いあっている子供たちがいます・・・そこには「大声で笑う事の恥ずかしさ」は見受けられません。

少し怒ったように、友達に向かって叫んでいる子がいます・・・その声は「自然なガム混じり」であり、豊かな声量を伴っています。

友達の名を、甲高く連呼する子がいます・・・声が「裏返る」様子は全く感じられず、また当人もそんなことは全然気にしていないようです。


人間の声は本来「一本化」していた

登校中の子供たちの声を聴くと、「人間の声は不本意に”裏声”と”地声”に分かれてしまった」という言葉を信じない訳にはいきません。

彼らの声は、正に僕たちがボイストレーニングのゴールとして目指している「低音から高音まで見事に繋がった声」です。

フースラーは「人間は本来、歌える生き物である」と言っています。僕はこの言葉を信じていますが、彼らの声を聴いているとますますその思いを強くします。そしてこの言葉、多くのボイトレ学習者たちに夢を与える素晴らしい言葉です。

 

感情を抑圧していない=声を抑圧していない

待ち合わせでもしているのでしょうか・・・歩いて近づいてくる友達に「○○ちゃん、早く来いよ!」と叫んでいる子がいます。

大人は決して、あんな大きな声で人の名を呼びません。成長につれてその必要もなくなってくる上に、外でそんなに大きな声を出す事は「恥ずかしい」ことだと学んでしまうからです。

成長につれて学ぶ感情のコントロールは、そのまま「声の抑圧」へと繋がってしまいます。

最近は防犯上「名札」は付けない事になっていますが、彼らはおかまいなしです!とても大きな声でお互いの名前を呼び合っています(笑)

彼らは「感情で声をコントロールすること」が、僕たち大人よりまだまだ未熟です。だから、声本来の強さや豊かさが損なわれていないのでしょう。例えば、食べ物屋さんで「うるさい!」と叱られるのは子供たちか酔っぱらった大人くらいのものです。そして「子供」も「酔っぱらった大人」も、感情のコントロールが苦手です。

 

声に対する不安を持っていない

彼らの声を聴いていると、僕自身が歌う時に注意している様々な事が全てバカバカしく思えてきます。

「地声を持ち上げてはいけない」「喚声点付近の音程は注意深くミックスする」「声量を上げすぎてはいけない」・・・どれもがとてもちっぽけに感じられます。

僕はレッスンで地声の練習をする時に「レッスンの後、声をたくさん出さないといけない用事はありませんね?」と念を押すようにしています。地声の練習は喉をとても疲れさせるので、その後に影響が出ては困ると思うからです。でも、こんな心配すら子供たちからすればバカバカしい事なのかもしれません。彼らは「声が出ない」なんていう心配はしたことがないでしょうから。

 

まとめ

登校中の子供たちの声を聴きながらブログを書いていると、ボイストレーナーとして・シンガーとして、とても良い刺激を受けます。

ブログで度々書いてきたように「喉の機能回復」という前提でボイトレを考えると、子供たちの声はとても無視できない、むしろ「素晴らしいボイトレ教材の宝庫」であると言えます。

彼らの声は、音程の高い低いという次元ではなく「根本的な声の質」が大人の声とは違うと感じます。

少なくとも僕たちの何倍も有効に「人間に本来備わっている喉の機能」を働かせて、会話したり叫んだりしているように感じます。

この窓際の部屋で、朝の小学生の登校時に、子供たちの声のシャワーを浴びながらボイトレブログを書く・・・僕はとても恵まれた環境にいるのかもしれません!

 

以上、ご精読ありがとうございました。

筆者のプロフィール、ボイトレへの考え

PAGE TOP