【チェザリーの言葉】声を繊細に操る、乱暴な発声は歌を破綻させる

仲の良い友人たちと居酒屋でお酒を呑む。最初は昔話に花が咲き、楽しいひと時が流れます。

けれど、誰かの何気ない一言がきっかけで、その場でちょっとした口論が起こることがあります。ほとんどの場合は本当に些細な一言が原因なのですが、それが他の誰かを少し傷つけてしまい言い合いになってしまう・・・残された者たちが仲裁に入るも、少しの間気まずい時間が流れてしまう・・・そんな経験が誰にでもあると思います。(まあ、昔馴染みなので、最後は笑って散会とはなりますが!)

せっかく久しぶりに会って呑んでいるのです。参加者一人一人が少し”暴力的な”言い回しを抑制出来ていれば防げたのに・・・

 

話は変わりますが、僕が昔ギターを教わっていた頃のことです。僕たち生徒は先生から、誰かと物をやり取りする時は「不躾につっけんどんに渡したり」「ひったくるように受け取ったり」しないようにいつも注意されていました。

先生曰く「音楽というのは音を滑らかに紡ぎ、感情を繊細に橋渡ししていくものなのだから、日常生活からそのような姿勢で過ごすべきだ」と。

僕はその教えはとても良く理解できました。なので、消しゴム一つ、鉛筆一本渡したり受け取ったりする時でも丁寧な受け渡しを心がけていました。(少なくとも教室内では!)

さて、歌に関してもまさに同じようなことが言えると思います。暴力が繊細さを上回ってはいけません。

以下はハーバートチェザリーの著書「The voice of the mind」からの引用です。

芸術的才能をフルに開花させたいと願うなら、歌手はつねに暴力的な傾向にたいして警戒し、それを抑制しなくてはなりません。暴力的な傾向は人のマインドにひそんでいて、より繊細な性質を征服しよう、破壊しようと狙っています。ちょうど、地上に降りた霜が花や果実をしおれさせてしまうように。

チェザリー

 

誰の中にも潜んでいる”暴力的な傾向”

上に引用した中に”暴力的な傾向”と書かれていますが、僕はそれを”乱暴な”という意味に捉えたいと思います。

歌において”暴力的な・乱暴”な因子とは・・・「やたら大声を張り上げる」「言葉や音程を強くイメージしないで行き当たりばったりで歌う」「声の音質にこだわらない」といったことになるでしょう。

誰の中にも潜んでいるこの”暴力的な”素質は、歌の中に突如現れて、全てを滅茶苦茶に破壊してしまいます。何もかもを”力でねじ伏せよう”としてしまいます。

そして一旦”力でねじ伏せよう”という方向性を与えられた歌は、もう元通りの”繊細な性質”に戻すことが難しくなってしまいます。

僕も自分の中に潜む”暴力的な性質が歌を壊してしまうことに悩んだ時期があります。ライブの序盤は慎重に”繊細な性質”で全てを満たしながら歌おうと努力しますが、一度”暴力的な性質”の介入を許してしまうと、もう止められません。結局それ以降は”ありったけの大声で張り上げる”しか方法はなくなります。

 

精神的・肉体的な疲労が”暴力的な傾向”を表面に押し上げる

体力も気力も充実している時は全てを繊細にやり抜こうと努力できますが、身も心も疲れ果ててくると”暴力的な傾向”がじわじわと鎌首をもたげてきます。

・・・こうなると中々元に戻せなくなります。声の音質に気を配ったり、歌詞や音程を思い浮かべたりすることをしないで、ただ勢いのまま力任せに歌おうとします。

歌の勉強とは、結局は「精神的・肉体的に疲労した時に、いかに繊細に音を繋いでいけるか」ということだとも言えます。喉が元気で気力が充実している時は、誰でも繊細なコントロールが効くものです。問題はその後なのです。

 

常に”繊細な性質”を求めて

僕たちボイトレ学習者は、むくむくと湧き上がってくる”暴力的な性質”に抗い、いかに”繊細な性質”を保ち続けられるか・・・日々そのことを訓練しているのだともいえます。

一音だけ、ワンフレーズだけ、サビだけ・・・短いパッセージでは誰でも”繊細”になれるものです。

一曲通して、いや、何曲も続けて歌ったときでも”繊細な性質”を常に失わない・・・そんなゴールを目指したいものです。

冒頭に書いた宴会での口論も、長い時間呑んだり食べたりしていて疲れてきたりダレてきたりした時に、ふと誰かの口から”暴力的な性質”が言葉となって発せられます。最初のうちは、皆お互いに気を使って”繊細に”語り合っているというのに・・・

 

以上、ご精読ありがとうございました。

筆者のプロフィール、ボイトレへの考え

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