歌う時、「意識しないこと、自然なこと」の延長上に「意識的に操作すること」がある。

私は過日、スケートをやりました。恐る恐る氷の上に立ち、手摺につかまりながら、右足を出しては引っ込めたりしていましたが、なかなか思うようにはいきません。そんな私を見兼ねたある人が(その人はスケートのインストラクターをやっています)が、こんな助言をしてくれました。

「最初は滑ろうとしないで、氷の上を歩くような感覚でやっみると良いですよ。小さい子供たちには、まず氷の上を歩くように指導することからスケートの練習を始める場合があるのですよ。」

なるほど、と思い、私も早速やってみると、時間とともに、氷の上を少し歩くことは出来るようになりました。

「氷の上を歩く」ことから「氷の上を滑る」ことへの移行練習がどのようなものなのかは私は知りませんが、「歩く」という運動は私たちに前もって備わった能力なのだから、「氷の上を滑る」という”いかにも難しそうな”非日常的な運動への移行の間には、「氷の上を歩く」という運動が挟まれていること、そのことによってグラデーション的に「氷の上を滑る」運動に導かれるという理屈に、私は妙に納得したのでした。

さて、そんな風に私たちが氷の上で四苦八苦しているのを横目に、優雅にフィギュアスケートの練習をしている若者たちがいました。男女のチームとおぼしき彼らは、男性が女性を抱え上げたり、二人手を取り合って優雅に演技してみせたり・・・いろいろな”型”の練習をしているように見えました。

私の両足には「”いかにも難しそうな”非日常的な運動(=スケート)を実現するための」重くて固いシューズが履かれていますが、しなやかな彼らの動きを見ていると、私と同じ類のシューズがその足元に履かれているとは、とても思えませんでした。当然のことです。彼らにとって「氷の上を滑る」運動など取るに足らないものであり、まるで「散歩をするかの如く」容易いことなのでしょう。彼らにとって氷の上を滑る事は、「何の意識をしなくとも」苦も無く実現できることなのであり、彼らはもっと次元の違う目的(=優雅な演技の型をつくること)のために、今まさに練習中なのです。

彼らにとって「氷の上を滑ること」は「歩くこと」の延長にすぎず、それは「第二の天性」なのです。

 

スイスの発声学者・フースラーは、画期的な自著「うたうこと」の中で、「第二の天性」という表現を用いています。これは主に「呼吸」に類する記述の中に見つける事ができます。

大意はこうです。「歌唱時に、自然で生理的に正しい呼吸が可能になったなら、その先にある”呼吸を意識的に操り、表現の幅を広げる”ことの練習をしてもよい。そんな”意識的に呼吸を操ること”は、いうなれば”第二の天性”と呼ぶべきものである。なぜならそれは、すでに身に付けている「生理的に正しい呼吸(第一の天性)」の本質からは離れていないものだからである」

ここで言われる「第一の天性」とは「歌唱時の生理的に正しい、自然な呼吸」ということになります。「第二の天性」つまり「意識的に操作された呼吸」は「第一の天性」と本質的にはなんらかけ離れておらず、その応用であるということになります。つまり「第二の天性(意識的に操作された呼吸)」は、あくまでも”生理的な正しさ”や”自然さ”の上に成り立つものである。ということです。

私はフィギュアスケートの練習をする彼らを見て、フースラーのこの記述を思い出していました。もちろん彼らにとっても「歩くこと」が「第一の天性」であるはずです。一方「氷の上を滑ること」は、一見「第一の天性(歩くこと)」とは程遠い運動のように見えます。しかし、もし彼らが、私が受けた指導のように、訓練の一番初期に「氷の上を歩くこと」から練習を始めたのだとすれば、彼らにとって「第二の天性(氷の上を滑ること)」は「第一の天性(歩くこと)」の身体の動きの延長上にあるのです。

いずれにしても、音楽であれ運動競技であれ、最も基本的なこと(第一の天性)のしっかりとした土台があってこその、より複雑な応用(第二の天性)なのです。

また残念なことに、フースラーは、現代人にとっては上記の「第一の天性」でさえ、上手く働かなくなっている、と述べています。

 

以上、ご精読ありがとうございました。

筆者のプロフィール、ボイトレへの考え

PAGE TOP