【チェザリーの言葉】適材適所 ~声の美しさ=音楽へのふさわしさ~

適材適所・・・

人の能力・特性などを正しく評価して、ふさわしい地位・仕事につけること。伝統的な日本家屋や寺社などの建築現場での木材の使い分けがその語源である。すなわち“適材適所”の材とは木材の材を意味する。

適材適所という言葉がありますが、上記のように、何種類もある木材を建築物の”最も適した場所”に使用するという意味が語源のようです。(恥ずかしながら、今回僕はその語源を初めて知りました)

一般的には”仕事の適正”の事を意味する言葉として使われることが多いように思います。

因みに、「ふさわしい」の反対語は「不似合い」となるようです。

歪んだ荒々しい声・・・澄んだ爽やかな声・・・低音の野太い声・・・高音の甲高い声・・・声の種類は様々ですが、その声によって歌われる歌、演奏される音楽の種類や特性によって、それぞれの声は「ふさわしく」もなり「不似合い」にもなってしまいます。

さて、この記事では「声の適材適所」というテーマで書いてみたいと思います。

お付き合いください。

 

「良い声(きれいな声)」が、全ての音楽に”ふさわしい”わけではありません

世間一般的な「良い声」とはどのようなものでしょうか?

この問いに対して街頭でアンケートを取ったなら、おそらく「良い声=きれいな声」という答えが多くなると思います。(あくまでも一般の人を対象にした場合です。ミュージシャンへのアンケートなら、もう少し違う結果になるかもしれません)

また「良い声だね」といわれる男性の声は、きまって「濁りがなく、太くダンディな声」です。

上記のような、所謂「良い声」は、確かに特定のジャンルの歌にはとても”適して”います。

例えば、オペラを歌うのに適した声とは「濁りのないきれいな声」ということになり、オペラ歌手に”きれいな声”を授けることは「適材適所」であるといえます。

しかし、こういった「きれいな声」が全ての音楽に「ふさわしい」わけではありません。選ばれるジャンル、歌われる音楽の特性によってはこういった”良い声”でさえ「不似合い」になる事さえあり得ます。

 

「汚い声」が、”ふさわしい”音楽はたくさんあります

一方、オペラを歌うには”不似合い”な「歪んだ荒々しい声」が生きるジャンルもたくさんあります。

ハードロックやヘビーメタルの歌手は、曲の全編をほとんど「歪んだ荒々しい声」で歌います。

こういった種類の声は、上の項で書いた街頭アンケートでは「汚い声」と捉えられるかもしれません。

しかし、このような声はハードロックシンガーにとっては完全に「ふさわしい」のであり、彼らに”汚い声”を授けることもまた「適材適所」なのです。

「汚い声」・・・便宜上、このような表現を使いましたが、怒りを剥き出す歪んだギターと重戦車のような重いドラムの上で歌われるボーカル・・・クリアーな声では感情の爆発を表現できないのかもしれません。こういった”特性”の音楽には「歪んだ荒々しい声」こそふさわしく、まさに完全に美しい”とさえ感じます。

 

結局「その音楽がどんな音質の声を求めているか?」が全てです

つまり「きれいな声」「汚い声」という評価は、ただ単に”声の音質”への評価なだけであり「声の良し悪し」を決めるものでは決してないということです。

結局は「その音楽にふさわしいかどうか」が問題なのであり、それぞれの声をふさわしい場所(ふさわしい音楽)に配置することこそ、まさに「適材適所」なのだといえます。

つまり、それぞれの音楽には必ず「その音楽が求める声の音質」があるはずです。

ラグタイムジャズなどで使われるホンキートンクピアノは、意図的にチューニングを少しずらした設計になっています。厳格なクラシックピアノからは想像も出来ないようなことですが、実際にラグライムにおいては、このホンキートンクピアノの音がサウンドの要となっています。つまりホンキートンクピアノはショパンを弾くには「不似合い」ではあるけれど、ラグタイムジャズには「ふさわしい」のです。

ボブディランの声は喉の位置がとても高く、平べったく鼻にかかって聴こえます。一方、ブルーススプリングスティーンは野太く荒々しい声の持ち主です。二人はそれぞれ作曲家としても秀でていますが、もし二人が声を入れ替えて自分の曲を歌ったとしたらどうでしょうか?ディランにスプリングスティーンの声を、スプリングスティーンにディランの声をそれぞれ授けたなら・・・きっと「不似合い」であり、彼らの音楽そのものの印象までも変えてしまうでしょう。

 

美しいこと=ふさわしいこと

三大ボイストレーナーの一人、ハーバートチェザリーの言葉に「美しいことは”ふさわしいこと”」というものがあります。

なるほど、主観を超えた普遍的な”美しさ”は、”ふさわしさ”であるともいえるでしょう。

ただし、チェザリーは上記の言葉を、もう少し狭義の意味で書いています。つまり「声楽的である」ということを”美しい”とする、ある種の”クラシックというジャンルのマナー的な縛り”の中での言葉だとは思います。

ボイトレは「音質の美的判断」を超えて行うものです

色々と書き進めてきましたが、このブログは「ボイトレからはみ出さない」ことを主義としているので、付け加えます・・・

ボイストレーニングに「音質の美しさ」を求めたり、持ち込んだりすることは、訓練の目的から大きく道を踏み外すことになりかねません。

あなたがオペラを歌う事になろうと、ヘビーメタル歌手を目指そうと・・・目指しているジャンルに”ふさわしい”音質がどんなものなのかはボイトレには関係がありません。

ボイストレーニングで出す声は、あくまでも「喉の中で起こっていることの結果」という意味”だけ”で捉える事が大切です。

 

以上、ご精読ありがとうございました。

PAGE TOP