ボーカルトレーニングは弊害もある 個性的な歌心はボイストレーニングによって

「ボイトレは個性を潰す」「ボイトレした人の歌は面白くない」「発声なんか悪くても人は感動する」・・・

ボイストレーニングする事の是非について、必ずこういう意見があります。

「歌なんて自然に歌えばいいんじゃないの?」「ボイトレすると、かえって変な歌い方になるって聞くよ!」・・・こんな質問を僕も受けた事があります。

「もし、あなたが歌う時に何らかの不自由さを感じているのなら、ボイストレーニングするべきです」・・・この質問に対する僕の答えはいつも決まっています。

「個性」「個性的」「独特な」・・・こういった言葉は、時に身勝手で都合のよい使われ方をする時があります。

今回は「ボイトレすると個性が消えるのか?」について、色々と書いてみたいと思います。

お付き合い下さい。


人間は誰もが「個性的な歌心」を持っています

このブログでも度々書いてきましたが「人間には隠しようもない個性的な歌心が宿っている」というのが、僕の考えです。

カラオケでも、小学生の歌の発表会でも、テレビののど自慢でも、何か「アマチュアによる」歌の発表の場を観察してみましょう。

皆がとても個性的に歌っている事に気付くはずです。発声自体はとても未熟なはずなのに、なぜか印象深い独特の節回しを伴った・・・正に自然な歌心が現れています。

しかし、ここで「ボイトレは個性を潰す」という意見に少し同調するとしたら、例えばのど自慢大会で上手な人ほど「無個性だ」と感じる面は確かにあります。(この理由については後述致します)

しかし、若い頃からの愛唱歌を、客席から応援する孫たちに見守られながら堂々と歌うおじいちゃん・・・この人はおそらく歌に関する何の勉強もしていないのに、何と個性的な事か!と驚くでしょう。(少し補足がありますので後述致します)

つまり、「メロディーと歌詞に感情を宿らせる」ことに関しては、人間は皆、とても高い能力を持っているのだと思います。

「ピアノを歌わせる」「ギターを歌わせる」という表現があります。これはピアノなどの機械的な楽器に「人間の歌のような感情表現を宿らせる」という意味です。つまり多くの他の楽器にとって「人間の喉が作り出す歌心」は、その楽器の感情表現が目指すモチーフになっています。「人間が本来持っている歌心」こそが、全ての音楽の基調となっているのだと考えてください。試しに、何か簡単な音階をピアノで弾いたあとに、何人かで同じ音階を歌ってみて下さい。そんな簡単な音階でさえ、それぞれ十人十色の個性を発揮して歌うと思います。またこれをピアノに置き換えて模倣する事が「ピアノを歌わせる」という事になります。

フースラーのいう「人は本来歌える生き物である」という主張は、喉の機能回復の他に「感情表現」という面でも僕たちに夢を与えます。「勉強する・上達する」のではなく「思い出す」ことで、自由に歌う事ができるという考え方です。

 

「歌心の表出を妨げている原因」は取り除かなければなりません

そんな誰もが持っている個性的な歌心が100%表に出てくることを妨げてしまうのが「喉の機能の未熟さ」です。

人間の喉は「ここはこんな風に歌いたい」という即興的な発想を、反射的に声に変えて出す事が出来るという、信じられない能力も持っています。

多くの人はこの「喉の機能」を満足に働かせることが出来ていないので、やろうと思った表現が出来ない状態がずっと続く事になります。そして「喉の機能」を高める(回復させる)ためには、それ相応の訓練、つまりボイストレーニングをするより他ありません。

上で書いた「のど自慢で愛唱歌を歌うおじいちゃん」も、もちろん「喉の機能」は未熟なままでしょう。このおじいちゃんの「本来持っている歌心」が歌に現れている事は間違いありませんが、反面「上手くないこと」が「個性的」だと受けとられている部分も確かにあると思います。もし仮にこのおじいちゃんがボイトレをして今より上手く歌えるようになったなら、「上手くない事によって現れていた」いくつかの特徴は消えてしまうでしょう。ただ、当然その事は「ボイトレは個性を潰す」という事とは別の話です。

 

ボイストレーニングは「道具の開発」です

ボイストレーニングとは「喉という道具」、つまり「楽器」に手を加え、本来の能力を引き出すために行なうものだという大前提を忘れてはいけません。

ピアノなどの他の楽器でも、より豊かな表現をするためには、より質の高い楽器が必要になってきます。

その人が持っている「個性豊かな歌心」、これを表面出てくるようにする、聴いている人の耳に届くようにするには、喉という「道具」の改良が必要です。

ボイストレーニングとは、そんな目的で行なうべきものです。

 

弘法は筆を選ぶ

上の項からの続きとなりますが、聴かせたい表現を実現するためには「質の高い楽器=充分に機能回復が進んだ喉」が必要です。

上手なピアニスト・豊かな表現を身に付けている奏者ほど、それに応えてくれる良い楽器を求めます。

繰り返しになりますが、人間は皆「唯一無二の歌心」を持っている、つまり「豊かな表現を身に付けている奏者」だと考えて下さい。

あと足りないのは「質の高い道具=喉」だけです。

歌だけではなく、音楽全般の奏者に言える事は「弘法は筆を選ぶ」です。

粗末な道具では、豊かな演奏は不可能です。

偏った「ボーカルトレーニング」は個性を潰す可能性があります

「ボイトレは個性を潰す」という意見が、「ボイストレーニング」と「ボーカルトレーニング」を混同していることから出ている可能性はあります。

上で書いたように「のど自慢大会で上手な人ほど無個性だと感じる」・・・このことは「偏った”ボーカルトレーニング”」”による弊害かもしれません。

もし、この人がボーカルトレーニング、それも細部の節回しや語尾の伸ばし方、ビブラートをかける場所やタイミングまで事細かに指示されるようなトレーニングを何年も受け続けてきたなら・・・この人の「潜在的な歌心」は抑圧され、先生の意図のまま無機質に音をなぞるだけになってしまうでしょう。

これは「歌心を表に出す」という事とはかけ離れた、「感情表現という名を借りた、歌唱テクニックの押しつけ」にすらなってしまう危険があります。

こうなると、やはり「無個性」と感じられても仕方ないことかもしれません。

僕は、ある意味ボーカルトレーニングは、ボイストレーニング以上に慎重になるべきだと思います。ボイストレーニングにはある程度の客観性がありますが、ボーカルトレーニングにはそれがありません。僕もレッスンで歌の指導をしますが、アドバイスはあくまでも「ジャンルのマナーからの逸脱」を避ける事だけに留め、せっかく現れ始めた「歌心」を抑圧しないように心掛けたいと思います。

 

まとめ

結論としては「ボイトレは個性を潰す」どころか、内面に眠っている「歌声」が現れてくる手助けをします。

やりたい事が出来なくて不自由さを感じながら歌っているのなら、是非ボイトレすべきだと思います。

ただ、ボイトレはあくまでも「道具の開発」のためにあります。

偏ったボーカルトレーニングによって、せっかく現れ始めた歌心を表面的な歌唱テクニックで覆い隠してしまうことは避けたいものです。

ライブで歌っているシンガーの「感情のまま歌ったら、多少音程が外れても声が裏返ってもお客さんは感動してくれる!」という主張も聞いた事があります。しかしこのシンガーが「音程を外さず、声も裏返らず」歌う事が出来たなら、お客さんは”もっと”感動するはずです。そして、未熟な喉のまま歌って得た「感動」は、そのシンガーの「頑張っている姿」に胸を打たれた!・・・そういう種類の感動である可能性すらあります。

 

以上、ご精読ありがとうございました。

筆者のプロフィール、ボイトレへの考え

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